2013年11月7日木曜日

ニューナンブ (3)


Text:Onnyk





第五列前夜3

 ピナコテカレコード、吉祥寺「マイナー」と言えば、もしかすると凄く興味を持ってる若い人がいるかもしれない。まあ、実際、今年になってからなんだかんだと70年代後半から80年代にかけての活動についていくつか取材があった。だから当然、最初はジャズ喫茶だった「マイナー」のことや、そのオーナー佐藤隆史さんが設立したレーベル「ピナコテカ」のこと、それに関連したレコードのリリースや、第五列、アノードカソードのことなども話さなければならなかった。

特に、今年はディスクユニオンからDEKUスタジオ、第五列、ピナコテカの共同製作による「なまこじょしこおせえ」というLPCDになって再発されたことや、第五列の70年代から今世紀に入ってからの演奏まで収録したボックスセットが出た事もあって、ドミューンにも出演した。だから正直言えば詳しい事は、それらを買ってちょうだいという気持ち。雑誌としてはデザイン系の老舗雑誌「アイデア」(第357号)にもゲソ藤本がインタビューで応えています。このニューナンブもまあ、その一つなんだが、ちょっと逸れて私自身の興味の問題に触れたい。というのは、私の最新の演奏と、思春期に入ったばかりの精神の志向性がどんどん近づいていて、これを人は「二度ワラベ」とでも言うのだろうか。心配である。で、その対象となるのがバイオリンだ。



私は絵を描くのが好きで、幼稚園の頃から鉛筆と紙があればいつまでも時間を潰せた。どこまでも緻密に描くのが好きだった。まあ、よくある流れだが、ダリやマグリットやキリコに驚き、そのリアルなタッチと摩訶不思議な画面構成にショックを受けた。そして私はすぐさま、そういう作品を目標とした。しかし私は実は、色彩を扱う事が実に苦手であり、線描とモノクロが得意なのだ(これは今でもソロが好きで、オーケストラが苦手というのに反映している。和声は色彩感覚だ)。シュルレアリスムと同時に「一つの物体を色々な方向から見て、それを同時に一つの画面に構成する」というキュビスムの考え方を知った。ある日私は、音楽準備室にあった古いバイオリンを発見した。弦は既になく、コマも弓もないままにケースに眠っていた。裏側に昭和30年購入とあった。私は音楽教師に、それを絵の対象として使ってもよいか尋ねた、すぐ借りることができた。私は壷とバイオリンを並列して、我流のキュビスムで描いた。その出来には満足した。しかし私は、そのバイオリンを返却しないまま卒業した。

高校でも美術部に所属したが、部室では絵を描かず、卓球ばかりしていた。そして私の興味の中心は音楽にシフトしていった。ジャズ、ロック、現代音楽などが好きであったが、楽器がなく、技術も無かった。私が持っていたのは、あの弦の無いバイオリン。私は、父の持っていたマンドリンの弦をもらい、これをバイオリンに張った。楽器屋を回り、安い弓を探した所、小学校低学年向けだと言う実に短い弓を見つけ、3千円で購入した。ついでに書いておくと、弦を巻上げるペグが3個しかなく、1個に2本の弦を巻き付けた。鳴らす上で重要なコマは、セルロイドで自作した。

私が最初に取り組んだ演奏は、自己流の「民俗音楽」だった。中学時代から、ラジオをよく聴いていたが、柴田南雄の現代音楽、小泉文夫の民俗音楽の時間はかかさず聴いていた。私はある日、フラジオレットでビブラートをかける方法を開発した。どういうことか?フラジオレットは、左手の指で弦をしっかりと押さえずに、軽く触れて倍音を出す技法である。しっかり押さえてこそビブラートができるのに、それは不可能ではないか。実は私は通常のビブラートができなかった。私はインド南部のバイオリニストがやるように、胡座をくんで、左膝のあたりにバイオリンを立て、チェロのように弾いていた。そして、右足の踵で弦の根本に近い辺りを押しつけ、貧乏ゆすりすることで、全ての弦を同時にビブラートさせることに成功した。しかもこれならフラジオレットでもビブラートできるのだ。

南米のインディオ、東南アジアの山地民族、アフリカの弦一本の擦弦楽器あたりをイメージしていた。今でもやろうと思えば出来るのだが、腹が出てしまったので難しくなった。私はこのサウンドを友人達に聴かせた。友人達もいろいろなものを聴いていたので、これを使って何かできないかとなった。其の時モデルになったのは、なんとキングクリムゾンと、サードイアーバンド!物好きが集まって、高校の普段は使われていない録音室で隠れて練習を開始した。クリムゾンは「船乗りの歌」をコピーしようと思ったのだが、結局、ビオラを演奏する友人を入れ、私はドラム代わりにボンゴとノコギリを叩いた。サードイアーバンドは縦笛やチャルメラを入れて「それっぽい」音を出すにとどまった。一聴、単調、単純に聞こえるが、実はこういう曲、こういう演奏こそが難しい。私たちはそれを中途で諦め、そのうちにクリームやらパープルやらの下手なコピーをする文化祭バンドになった。それから3年ほどして、あのバイオリンにピックアップマイクを付け、さらにそれをディストーションで歪ませて、とげとげしいサウンドを作る事に成功した。22歳の事だった。


  私は、それと(これまた借り物の)テナーサックスをひっさげて、夜行列車に乗り、8時間かけて東京へと向かい、上野駅に着いた(当時、東北新幹線は開通していなかった)。19791225日だった(かな)。すでにゲソ藤本は、京都で大学を卒業し、東京へ移住、吉祥寺マイナー周辺人脈とのつきあいを深めていた。私も既にマイナーには行ったことがあった。そしてオーナーである佐藤隆史氏とも顔見知りになっていた。この頃のことは、園田佐登志氏と彼の主催していたFree Music Space、竹田賢一氏とヴァイブレーションソサエティ、East Bionic Sinfonia、GAP、エラン・マレ、ガセネタ、突然段ボール、子供バンド、ヒカシュー、火地風水、ガラパゴス、イベント・アクシデント7711などとの関連でまた書く事もあるだろう。また、池袋西部デパート12階の現代音楽・現代美術専門店「アール・ヴィヴァン」と芦川聡さんのことも。

開店してすぐのマイナーは、即興演奏やフリージャズをかける店として、その手のファンが集まり出した。そして佐藤氏自身がピアノをやっていたこともあり、店にグランドピアノがあった。遂に最初のライブ。それは加古隆、オリバージョンソン、ケントカーターのトリオだった。これでマイナーは、フリージャズのライブもやるジャズ喫茶として確立した、筈だった。ところがその後、フリージャズ関係だけでなく、即興演奏、現代音楽の演奏者が集まり出し、なぜかパンクシーンからもはじき出されたような過激なロックミュージシャン、舞踏関係、怪しげなパフォーマンス集団などが集まり出した。この辺りの事もまた書くだろう。

そんな訳で、私たちの「あるような、ないような集まり」たる「第五列」は、マイナーにて「いむぷろゔぁいずど大晦日いゔ」なる企画をマイナーですることにした(197912月30日)。これは知人、またその知人の即興演奏者達を無慮20名ほど集め、組み合わせをかえて、ひたすら即興演奏をするというものだった。この企画の背景にはデレクベイリーの始めた「カンパニー」という方法論が大きく影響していた。これは単に我々だけでなく、当時、其の手を聴いていた演奏家達には多かれ少なかれ影響を与えていた。マイナーでは「ファクトリー」と名付けて不定期にやっていたし(ウォーホルみたいな名前だが)、河野さんや近藤さんのTreeなんていう集団もあったなあ。皆「バンドでも組織でもない。だから自由な即興で可能性が開けるんだ。フリージャズなんて死んだ」と言っていた。だからそれに反発する人達も勿論いた。ニュージャズシンジケート、高柳一派、生活向上委員会なんかはそうだったと思う。

しかし、当時、東京のあちこちで参加フリーのセッションが繰り広げられていた。その有名な場所の一つが西荻「グッドマン」だった。店主の鎌田氏もサックス奏者として活躍していた。そして吉祥寺の「マイナー」という訳だ。そして吉祥寺の「マイナー」という訳だ。他にも早稲田にJORAという店があり、女性だけのバンド、水玉消防団のメンバーが運営していたが、その店の裏に大きな部屋があり、そこに即興演奏集団、ヴェッダミュージックワークショップが集まっていた。このグループには向井知恵さん、風巻隆君、鈴木建雄(たけお)君も参加していた。とにかく頭の中は即興演奏で一杯だった。間章がデレクベイリーを招聘したのが1978年、私もわざわざ渋谷まで見に行ったのである。即興は音楽の最先端にいると思い込んだ。だから我々もそれをやろうと思ったのである。「カンパニー」についてもいずれ触れる事になるだろう。

いずれ私は、サックスとバイオリン持参で、第五列の企画と、夜な夜なのセッションに参加すべく上京したのだ。上京初日、私は早速マイナーに向かった。そこにはガセネタの面子が居た。佐藤隆史、浜野純、大里俊晴である(三人だけ)。大里氏に会ったのはこれが最初だった。彼らは何やら激しいサウンドを聴いていた。LAFMSのメンバーが作った「エアウェイ」だった。LAFMS?わからない人もいるだろう。これもそのうち紹介する。私はそれを聴きながら酒を飲み、そのままトイレで寝てしまった。しかし翌日、佐藤氏のバンド「自虐視座の戯れ」に参加する事だけは了承していた。「自虐視座」のメンバーは、佐藤氏がピアノ(リングモデュレーター付き)、久下恵生さんがドラム、石渡明廣さんがギター、伊牟田耕児君(当時高校生。後に役者)がボーカルだった。それに私がサックスとバイオリン。ライブ直前のリハーサルは実にあっさり終わり不安だったが、皆が「まあどうなってもいいのさ」的なノリだったので、そう思う事にした。一曲目から私のバイオリンはノイジーだった。が、今その録音(ちゃんとあります)を聴くと伊牟田君の声にマッチして良かったと思う。この日の出演は、自虐視座の他、灰野敬二氏の不失者と金子寿徳(かねこじゅとく)氏の光速夜だった。このへんの事を書くとまた長くなるので機会を改める。
そして、それから33年経た2012年。私はまた、あのバイオリンを取り出した。今度は、構成された曲、のようなものを演奏する、盛岡の集団「ドーシマス・シンフォニア」で演奏する為である。このアンサンブルは、市内のお寺で、ライブハウスで、閉店したジャズ喫茶で、プログレ喫茶で、クラブで、演奏した。-そのメンバーの一人から、私はエレクトリックバイオリンを借り受けた。そして今、私はそれを専ら弾いている。

私の今の演奏は、一言で言えば、かつての憧れの一人である小杉武久の模倣のようなサウンドである。しかしそれでいい。私はどうやら原点に戻った気がする。というのも、初めて即興演奏というものを意識した当時、小杉のソロ「キャッチウェイブ」や、タジマハール旅行団のレコードは、希少で、また最高の音楽に思えたからである。今、私は「何が最高か」などとは思っていない。しかし、自分が演奏していて気持よくなれるのはこの手の音、いわば自分には封じ手にしてきたようなサウンドが、やはり好きなのだ。ある意味垂れ流し的に弾いているけれど、もはやどうでもいい。好きにやらせてもらいたい。どうせまともには弾けない。どう逆立ちしても、毎日必死に練習しても、私より美しく弾く人はゴマンといる。だったら私は私のやり方でやるしかない。

今私は同時に3本の弓で演奏する方法を練習している。また、弓を固定して、バイオリン
を振り動かす方法、プリペアドバイオリンも開発中。最近のライブで試している。ちなみ
に私のバイオリンの教師は、ハンベニンクとジャンデュッビュッフェだと思う。
私の演奏は何も主張しない、メッセージも意味も無い。しかし私は準備し、構成し、それ
を環境に合わせて可能な限り実践しようとする。それに何を感じるかは、聴く人にお任せ
する。無責任だが、強要するよりいいだろう。私には伝える何物もない。

私のキャリアのごく初期にバイオリンがあった。後にギターやサックスに転向し、一旦自分の即興演奏に限界を感じて辞めたが、現在は中止ではなく一巡だと思っている。また疲れたらバイオリンの絵でも描いて、バルトークの「無伴奏バイオリンソナタ」か、ライコーフェーリクスか、カルロスジンガロか、パパジョンか、シュガーケーンか、ハイフェッツか、シゲティか、クイケンでも聴いて昼寝しよう。(続)

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