2013年12月17日火曜日

ニューナンブ (4)


Text:Onnyk

盛岡なう3

<菅野修の隠遁、そしてソ連からのフリーミュージック>

菅野修から連絡が途絶えた頃、私も行き詰まっていた。89年くらいだったと思う。崩壊直前のソ連から、なんでもありのバンド、「アンサンブル・アルハンゲリスク」が来て、盛岡でライブをやった。ジャズ評論家、副島輝人さんからもちかけられた話だ。副島さんからは色々ユニークな演奏家を紹介してもらい、盛岡でも好評だったから、また引き受けたいとは思った(「メルス・ニュージャズ・フェスティヴァル」の映画上映もやった)。

ましてや初来日のソ連の、しかも辺境のバンドである。が、今回は金銭的に厳しい。ざっと計算して120万はかかる。メンバーだけで7人、随行員(ソ連作曲家同盟のお目付け役。こういう人がいないと、亡命するおそれがあった)1名、それに副島さんである。赤字覚悟で引き受けたのは、鎌田大介という存在があったからだ。

鎌田のことはまた書かなければならない。大馬鹿でもあり、また比類なき存在である。音楽を美学よりも権力と闘争で語ろうとする。ああ、この事について書くと長くなるのでやめるが、鎌田に相談したところ、彼は即答した。「アルハンゲリスク!モスクワから北に500キロ!極寒の町!ロシア時代にその沖合いのソロフキー諸島に修道院が立てられ、冷戦時代には外国人立ち入り禁止の軍港都市。そこにジャズバンドがあったんですか!それはもう、なんとしても呼ばなければだめだ!」 彼には演奏なんてどうでもよかったのである。アルハンゲリスクという地名で、もうぴんぴんに反応してしまったのだ。だが赤字が出ても自腹でまかないきれない。そこで、「ユーロミュージックソサエティ」なる団体を、無理やり口説いた十数人でつくった。鎌田が事務局長をかってでた。

これを受け皿に、県と市から補助金をもらう。日露友好協会と日露親善協会(犬猿の仲)からそれぞれ補助をもらい、市内の飲食店やら普通の商店からも広告費をもらい、パンフレットに宣伝をのせた。地元のフツーの(つまらない)ジャズトリオを前座にし、これと最後に共演させて「日露文化交流による親善を図る」とした。

副島氏は「彼らはいろんなスタイルで演奏できる。どんなのがいいでしょう」というので「めっちゃフリーがいいですね」と言った。私の意に反して彼らがやったのは、おとぼけなパフォーマンスがだらだら続き、そしてときにフリーという、実に、まあいうならば「しまりの無いステージ」を展開してくれた。嗚呼、そんなのをやりたかったのか。ドリフのほうが面白いだろう。しかし、彼らには信念があったのだ。ロシアの時代から、体制を批判する民衆の道化師、スコモローヒという連中。アルハンゲリスクは、その精神を受け継ぎたかったようだ。そんなことは「ソ連のジャズ」を期待してきたお客さんにはわかるまい。

実は各メンバーの演奏力はとても高かった。しかし、リーダーのウラジミール・レジツキーはサックスにディレイをかけすぎて、せっかくのテクニックを殺していた(ディレイをかけると自分の音の響きを聴きすぎるきらいがある)。面白かったのは、入り口近くに、彼らが「お土産売り場」を設置したこと。レコードは持ってきていなかった。全て、家族のお手製の「お土産品」とか「お菓子」である。これが直接の収入になるんだから可哀想というか微笑ましいというか。随行の委員さんは女性で、私は婦人病の医者を紹介してくれと頼まれた。本国でかかるとお金がかかるらしい。亡命しそうだったのはこの人かも。前座の盛岡のトリオは、予定時間を全く無視して、延々とやってくれた。これも全体がだらけた理由のひとつ。最後は全員でブルーズ。ようやく面目がたもたれた。

とにかく赤字を最小限にやれたというだけでも幸運だった。が、さすがの鎌田も、内容に関しては渋い顔をしていた。私は疲れた。何ものこらなかった。私は今まで30年以上、いろんな人を盛岡に呼んできたが、共演しなかったのは数えるほどしかない。そのひとつがこれだ。しかしまあ、盛岡や岩手のジャズ愛好家の連中ときたら、まあ派閥意識が強く、同時に保守的もいいとこだ。リーコニッツの話がきたときでさえ、ソロだというだけで断った。いつまでも『モーション』聞いてろ(まあ、あれはマジいいけどね)。他にもマルクス・シュトックハウゼン(あのシュトックハウゼンの息子)のトリオとか、チェコの異才ダグマル・アンドルトゥヴァのときも全く関心なし。相変わらず、彼らはカウント・ベイシーあたりに大騒ぎしている。別にベイシーが悪いというのではないが。



<沈滞からの復活、仲間が増えた!>

話はそれた。私は、この時期、自分の音楽、演奏に真剣に悩んだ。いずれ疲れていた。どうにでもなれとでも思った。考えるのはやめたほうがいいと、仙台の画家、 石川から示唆を受けた。仕方ないので原点に戻った。ギターとサックスのソロライブである。どうしても二股を止められなかった。偉人カン・テーファンが来たときも前座でギターソロ、共演ではサックス。彼は助言した。「二兎を追うものは一兎を得ず」。あまりにも当然な。しかし、それをいまだに守れない私。

だらだらと続けるうちにまた依頼された。今度は大物だ!あの伝説のグループAMM!しかし、金が無かった。だめもとで、マネージャー田中 淳に聞くと、キース・ロウだけ単独でライブでもいいという。では、と頼んで盛岡でやった。同日は秋吉敏子のビッグバンドライブがあったけれど、20人もお客さんが来て、嬉しかった。またソロでギターを、デュオでサックスという悪いパターンをやってしまった。反省が無い。95年の秋である。 

同時期、中学から高校の同級生だった中島達夫という男が、スリランカの仏教修行から戻った。彼は元々エレキベースをやっていたので、一緒に何か始めることにした。こいつが私にいろんな音楽を教えた。
キース・ロウのライブで知り合った、ピアニスト、シンガーの佐藤陽子は大変な才能の持ち主と分かった。また、セッションで知り合ったノイズ君、こと泉山弘道は音楽的志向と演奏楽器が私と同じくらい雑食だった。こういう面白いメンバーがいるならと、私はジャズっぽいコンボをやることにした。私は60年代のポール・ブレイ・トリオが大好きだったが、佐藤陽子がやはりファンだったので、ブレイの「クローザー」からやることになった。私はそのトリオのドラマー、後にサークルにも参加したバリー・アルトシュルのファンだったので、どうしてもドラムをやりたかった。全く節操が無い。

当初、中島、佐藤、私のトリオで開始したが、中島は事情で離脱。ノイズ君が代わりに入ったが、ベースの代わりにユーフォニアムや、ギターの特殊奏法を用いたところ、全く新しいテイストが生まれ、私は有頂天だった。ないのは客だけだ。さらに、小松田義貞(ギター、ピアニカ)、小原晃(ドラム)、玉山徳臣(ギター)という才能が集まりだし、即興派カルテットとプログレッシヴロックの二面を持つコンボ「ソット・ヴォーチェ」となるが、それはもう少し後の話である。


<天才は忘れた頃にやってくる!>

その頃、練習スタジオのオーナーか、楽器屋のスタッフに「フリーでサックスを吹く人はいないかと聞いてきたドラマーがいる」と言われ興味を持った。遅れてきた異才、佐藤洋人の登場である。連絡をとって早速セッション。イアン・ペイスと森山威男が好きだというだけあって、まさにその通りの雰囲気のドラミング。これまた驚いた。

また、私の長年の演奏を知っているある人物が、ロックバンドに入らないかと誘ってきた。地元で長くやっている若者達が全く新しいスタイルのバンドを模索しているという。DJというかターンテーブル奏者も入り、ボーカルは三人もいる。かなり過激にやりたいらしい。

その練習に参加した。何時の間にかバンド名は「ホヤ・サンバイス」に決まり、私もメンバーになっていた。ホヤを三杯酢で食べるという意味だったようだが、後でホヤは二杯酢で食うべきだと諭された。でもHOYA SUN VICEと標記してそのままになった。毎週土曜、夜の10時から無料で使えるスタジオで怒涛のセッションだか練習だか。深夜2時頃までやっていた。これは95年の春だった。これだけでも満腹だがなんと、ここに天災いや、天才、菅野修が復活したのである!しかもかなりハードな考えをもって!(続く)


0 件のコメント:

コメントを投稿