2014年3月20日木曜日

ニューナンブ (6)

Text:Onnyk

盛岡なう4 『やっぱりカンノ・オサムだ!』(上)

<ちょっとだけトムコラ>
 
どうやら菅野修を「カンノ・シュウ」と呼んでいる、読んでいる方があるようなので書いておくが、「カンノ・オサム」が正しい。本人がいってるから間違いない。いや、本人が間違っていると面白いのだが。実際、以前に本人から聞き書きしたことをまとめたり、個展の為に書いた文章もあるからいずれ紹介したいが、とりいそぎここでは1995年から始めたフリージャズ的カルテット、およびトリオなどを中心に紹介したい。菅野自身が、多数ある自著のひとつ「ピンクのあたま」で、多くのミュージシャンとの共演や招聘を語っている(多くが漫画の作品集だが、これだけがエッセーである)。そんな中で、私自身が関わり、菅野と共演もしたのはペーターコヴァルト、トムコラである。


トムについては前にも書いたので重複になるが、やはりこの二人、既に故人となってしまった。業績を偲ぶ意味でも多くの方に伝えておきたい。トムコラは、アメリカのチェロ奏者で、フレッドフリス、ジーナパーキンスと一緒にスケルトンクルーのメンバーとしてやっていた多才な人である。私は彼が単独で日本に滞在していた頃、一週間ほど一緒に暮らしたことがあるので、死んだと聞いたとき、いつもの訃報以上に悲しかった。彼とは実にいろいろ話した。そのなかには実に下らないジョークや、キューバ支援のこと、矯正治療のことなどもあった。ディスヒートのドラムだったチャールズヘイワード、そしてトムの奥さんのカトリーヌジャニオウと組んだ「ザハットショウ」も面白かったし、ドイツのロックバンド「ダスプフェルド」なんかもかっこ良かった。トムは、ゴスペルの「ゴールデンゲイトカルテット」を愛聴していたのも思い出す。

今年2014年の1月、三鷹の「おんがくのじかん」で出会ったチェリスト、ガスパールクラウスが、とてもトムに関心をもっていたが、また彼の演奏や活動の軌跡が見直されているのだろうか。同じ楽器をやっているというだけではなく、ガスパールも非常に多岐に渡る活動、しかも日本人とのコラボレーションが多いので、同じような立場だったトムに関心を持つのも当然かもしれない。トム、竹田賢一、私などが八戸で共演した録音もあるのだが、これも当分お蔵入りというところだろう。


<ペーターコヴァルトのこと、あるローカルなトリオのこと>

ペーターコヴァルトは、FMPの設立者の一人で、これまた実に長期にわたり、交遊広い人物だった。彼のベースは実に重厚で、ストイックに、ひたすらに音に沈潜していくようなところがあった。それはソロ録音としては少なすぎるのだが、私は生で、その場で聴いたときに非情に感銘をうけた。その音を聴けば、禅に関心があるというのは不思議ではなかったし、ドイツでは禅を志す人が多いのも知っていた。彼は禅寺に入ることを目的として日本にやってきた。盛岡ライブはその直前だったと思う。ジャズ評論家、副島氏が同行し、メルスジャズフェスティヴァルの記録映画上映と、コヴァルトのソロ、そして地元の演奏家達との共演ということでライブを企画した。

地元としては、菅野修と私だけではなく、盛岡近隣の即興をやるトリオを招いていた。其の名を「クルル」といった(由来は知らないが可愛らしい。ケロロ軍曹はまだ無かった)。彼らはかなりECMに惹かれていたようで、ギタリストはパットメセニー、ベーシストはエバーハルトヴェーバー、パーカッショニストはエドワードヴェサラあたりの影響が見え見えだった。

彼らと知り合ったのは、私が当時2週間に一度開いていた「即興演奏の公開練習」という企画であった。彼らは実に寡黙で、また三人での一体性を重視していた。つまり逆に言えば、個々で他の人達と共演することに積極的ではなく、やっても表面的な音の探り合いで終わるような、そんな印象だった。即興演奏をするというなら、他者に対して開放的な、あるいは積極的に交流するというタイプが多いと勝手に思っていた私には、こういう内向的な人達もいるということが面白く感じられた。


<コヴァルトの盛岡ライブ>

私が彼らにコヴァルトのライブ企画の話をすると、参加に乗り気だった。しかし、やはり
自分たちだけでやる時間が欲しいという。だからそういうタイムテーブルにした。ところ
がクルルは予定の時間を延々越えて、まあ正直言えば全く緊張感のない、閉鎖的な演奏を
やってくれた。時折あることなのだが、前座の演奏が長過ぎるというのは聴衆にとっても、メインゲストにとってもあまり良くない。そういうのは何度か経験しているので(アルハンゲリスクの時がまさに!)、前座の奏者にはそれをよく言うようにしてきた。

6時半に開演し、最初に映画が1時間、コヴァルトのソロが1時間だったから、クルルが終わった時点で既に9時を回っていた。遠方からの客はもう帰り支度を始めている。そして私と菅野のギターデュオは10分と短くして、最後にコヴァルトとの共演になった。これは意外にも滑り出しがよく、「いい感じだ!」と思わせた。私はサックスに持ち替えていたし、クルルのパーカッションもジャズ的な叩き方をしている。なんだかフリージャズ風に燃えてきた。コヴァルトのドライブ感が凄い。クルルのドラマーもやるじゃないか。


私は変に余裕を感じて、ソロを菅野のトランペットに、またクルルのギタリストにと回した。彼が盛んにメセニーまがいのギターシンセを使うのが気になる。クルルのベーシストとコヴァルトのデュオもなかなかいい。だが、菅野修もまた引っ張る傾向がある人であることを忘れていた!。結局クルル、菅野の間で引っ張り合いが起こり、この最終セットは50分程も続き、ライブが終わったのは10時。お客さんはもうまばらだった。

ずるずる朝までいるようなクラブの客とは違う。飲み食いなしでよく持ちこたえてくれたと思う。そしてクルルの連中も、あっという間に片付けて帰ってしまった。打ち上げはどうしたか覚えていない。その後も連絡あったのかどうか忘れた。さて、コヴァルトは悩みを抱えていた。それは長時間の結跏趺坐ができないのである。たしか腰が痛いとも言っていた。墨染めの衣も、座禅用の座布団も用意してきたのだが、入山したものの数日ももたず、降りてきたそうである。可哀想に。いや、いいんだ、彼にとってはベースを弾く事がそのまま禅だったと思う。


<まずは、なんちゃってフリージャズ>

佐藤洋人のことは前に書いたが、とにかく燃える熱血フリージャズ志向のドラマーだった。そして彼を菅野さんに紹介したところ、気があってしまったようだ。私はそのころホヤサンバイスに加担していたのだが、どういう具合だったのかわからないが(鎌田大介の差し金か?というのは菅野、鎌田は同じ職場だったのだ!)、ホヤサンバイスと菅野・佐藤デュオが、同じライブに出る事になった。しかもそれはルーインズの前座だった。

菅野修はこの頃は専らピアノを弾いていた。どんな演奏だったか覚えていないが、菅野・佐藤デュオはとにかく一気呵成にやっていた。我々ホヤサンバイスはやる曲が決まっていたので、とにかく天下のルーインズの前座ということで張り切ってやった(ホヤサンバイスはその後、ボアダムズやメルツバウの前座もやった)。それからしばらくして、ある日菅野修はいきなり電話してきた。

「あのさあ、フリージャズカルテット作るから参加してね」
「はあ?誰がメンバーですか」
「金ちゃん(私のこと)と、佐藤さんと、あと誰かベース選んでさあ」
「じゃあ、暇してるから中島をベースにしましょう」 
「それ誰?」
「俺の中学からの同級生で東京にいて演奏もやってたんですけど、盛岡に帰って来たんす」
「その人フリーとかやるの大丈夫?」
「まあ多分」
「あとさあ、バンド名決まってるから」
「はあ?」
「『ベルアベドン』ていうの。いいでしょう」
「なんすか、それ」

あとで聴くと頻尿を止める薬の名前だった。どうしてそうなったのか全くわからない。菅野の言語感覚に触れるものがあったのだろう。彼は和歌などにも結構詳しいのだ。ベースに推薦した中島達夫は、東京で大手企業の営業をやっていたが一念発起し、スリランカの僧院に入って2年程修行してきた。だから上座部仏教については詳しい。宗教やら科学やら社会情勢、それとコンピュータやオーディオなどについても一家言ある。イイカゲンではない。

勿論、音楽はかなり広範に聴いているし、私がこんなにいろんな物を聴くようになったきっかけは彼のせいだ。しばらく会わない期間があったのだが、スリランカ滞在中も手紙をやりとりしていた。そして彼がすっかり盛岡に落ち着いてからは時々会っていたが、佐藤陽子と組んで演奏することになったとき、彼にベースで参加してもらうつもりだった。しかし佐藤陽子はカトリックで洗礼までうけており、中島は無神論的仏教を持論にしていたので、練習を一度しただけでだめになった(正確には練習後の会話で)。それで私はマルチプレイヤーのノイズこと泉山弘道をさそったのである。このトリオが最初の「ソットヴォーチェ」となった。

それ以来、中島との演奏の機会がなかったので、ベルアベドンというカルテットへ誘って
みた。まずはお手合わせということでスタジオに入ったが、菅野は実に真剣に取り組んで
おり、既に曲を2つほど用意していた。結構落ち着いたテーマがあり、次第に盛り上げて
いく形だ。それを何度かやっているうちに中島ものってきた。
「いやあ、菅野さんてすごい人だね。あんなピアノ聴いた事無い」と絶賛し、こうしてお
かしな名前のカルテットが生まれた。菅野修がピアノ、佐藤洋人がドラム、中島達夫がエ
レキベース、そして私がサックス(テナーとソプラノ)ということだ。誰もおそらく頻尿
ではなかったと思うが。たしか95年の師走に最初のライブをやった。私は手応えを感じ、正月に会った何人もの人に、手持ちの小さなカセットテレコでライブ録音を聴かせた覚えが有るからだ。そして月一度はやるようになった。


<ペーターブレッツマン来襲!>

翌年、田中淳さんが「ブレッツマンが6月にくるんだけど、スケジュールが空いているから盛岡でやりませんか」と聴いてきた。ブレッツマンは1982年、ICPテンテットで、その後サブ豊住さんと84年に盛岡に来た。サブさんのときは私が共演した。それは第五列ボックスに映像で一部収録している。そのあと羽野昌二さんとデュオで来た。そして四回目の盛岡となる。私はベルアベドンとの共演を申し入れた。佐藤は張り切って新品のドラムを購入した。さて、ライブは、ベルアベドンの前座があり、ブレッツマンのソロが終わり、共演となった。佐藤はドラムセットの陰でおにぎりを頬張り、好物のマウンテンデューで流し込んだ。これが済むと我々は演奏を始める事になっていた。

まあ皆、真剣に演奏していたのは間違いないけれど、とくに熱の入っていたのは佐藤である。いつもライブ前には走り込みをし、演奏前と休みにはおにぎりを一個づつ食べる。これはなんだか試合である。佐藤の体つきも軽量級ボクサーのような体育会系なのだが、この日はとくに燃えた。

そしてブレッツマンとのデュオシーンになると、ブレッツマンも大喜びでぴょんぴょん飛びあがりながら、佐藤を凝視して吹き捲くった。とにかく大変なデュオだった。これは録音、映像ともまだ全く公開していない。いずれ、あんなに喜んでいるブレッツマンは見た事が無い。佐藤も燃え切った感があり、最後は抱き合っていた。これはほんとにもう試合としかいいようがない。でもそれでいいんだろうか?

(下に続く)

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