2016年2月17日水曜日

ニューナンブ(14) 「みんなバカだった その3」

Text:Onnyk



<懲りない第五列、懲りた第五列>

実は、第五列はそんな状況で、いろんな音源を出していました。例えば「福袋 」プロジェクト。これは全世界十カ国くらいから、総勢数十名の参加者を募り、音、オブジェ、メッセージ、虫、印刷物、シール、原稿、マッチ棒、ジグソ ーのピース、ソノシートなど送ってもらい、一つの紙袋に入れて販売した。400部作る予定だったけど、多分300くらいで止まった。その理由はいろいろあるんですが、参加者が400用意して来なかったのが多い。だから我々は、ある袋にはAが入り、Bは入らない。またその逆みたいな感じで、全部の袋が同じ 内容ではないようにした。まあ音を送ってきた人については、送られて来たカセットから、一つのマスターカセットにまとめ、400コピーしました。この内容についてはまたいずれ書きます。

それから第五列と四国のDEKUスタジオとピナコテカの共同企画として作ったLPがある。これはタイトルが3つある。ひとつに絞れなかったので、めんどくさくなった。それが「なまこじょしこおせえ」「売国心」「INFECUNED INFECTION」ですね。結局一番覚えやすい最初のが通り名になってしまった。私はそのイラストも描きましたよ。これは最近ディスクユニオンからCDになってでちゃった。参加者はPPP、A-Musik、スティーヴ・ベレスフォード&デヴィッド・トゥープ(この人達は実はすごい英国ロックと即興の人脈にある。This heat, slits, alterations, new age steppers等々)、「まだ」(「まだ」ってバンド名ですからね。知る人ぞ知る)、などなど。もちろん第五列も各自、変名やバンドで参加しています。相変わらず匿名性が好き。

この30センチLPの特徴のひとつは、どれが誰の演奏だか分からなくするために、というか経費節減のため、レコードの真ん中のシール、つまりレーベルが貼ってないです。これじゃどっちの面だかわからない。真っ黒だから。大体にして参加者と曲名とメッセージは書いてあるけど、どっちの面の何曲目かわからない。あと、ジャケットが袋になってない。だから落としそうになる。袋になってないというのは、シルクスクリーンで表裏になる面を印刷して、あとは手折り。その間に盤をはさんだだけ。DEKU氏は、ビニール分解工場という名でいろんな活動をしていた。テクノポップみたいな音を作ったり、町の中でパフォーマンスして顰蹙を買ったり。それは今では高松の伝説だそうです。その活動に、若い頃大いに刺激をうけたのが、後にドミューンで有名になった宇川直宏さんです。

そして最近になって、第五列ボックス発売に合わせて、JOJO広重君、ゲソ藤本君、私がドミューンに招待され、出演したのもDEKU君が第五列と共謀していた時期があったことによるのです。第五列テープにもビニール分解工場名義でカセットが一本あります。現在彼は真剣に農業をやっているそうです。素晴らしい、ほんとに。全てが手作業ですよね。 ここで回想すれば、ピナコテカもそうだったけど、経費を削減する為の手仕事・手作業、つまりコピーやら、紙折りやら、シルクスクリーンやら、袋詰めやら、発送はえらく消耗します。それで、手作業で沢山つくるのはもう懲りました。経費節減以上に労力消費したという訳です。あと場所と人数ですね。

佐藤さんの家などはもう足の踏み場のないくらいプレスされたレコードとそれを製品として完成させる為の物や材料で埋まっており、佐藤さんはグランドピ アノの下で寝ていました。ゲソ藤本などは佐藤さんの要請で、製品作りを手伝いにいってたのです。あ、佐藤さんはレーベル発足以前、マイナー時代はピアニストとしても活躍したし、ドラムも叩いていた。後には写真家になりましたけど。 

 <当時のレコードシーン>

さて、徳間音工がジャパンレコードを立ち上げ、トリオレコードはPASSレコ ードを作った(後は面倒なのでパスと表記します)。メジャーなレコード会社が、傘下にマイナーレーベルを立ち上げた訳です。時代はインディーズでした 。パンクロッカー達は80年に入る前から自主制作のレコードを作り出し、それらが自主的な流通経路によって売れ始めた。東京ロッカーズなんていう流派もありましたね。そんななかで突出していたのはフリクションとか、アーント・サリーとか、INUでしょうか。そんな訳でパスレコードはフリクションのLPを製作する。そしてジャパンレコードはINU。その後パスはグンジョーガクレヨン、ジャパンは突然段ボールや 吉野大作プロスティテュートなんて出して行く。

まあ、この辺書き出すときりがないんですが、私はパスのプロデューサー後藤美孝さんと、竹田賢一さんを介して知り合った。後藤さんも「同時代音楽」の同人だった。そして当時後藤さんが非常に推していたのが、まずスロッビング・グリッスルの三枚目のアルバムで、これをパスから日本盤で出したいということだった。また同時期に、アーント・サリーを離れた歌手のフューのソロを、ドイツでカンのメンバーによって作るという計画だった(その前にフューは、坂本龍一の演奏で、パスからシングルを出していました)。 この二つのアルバムは実現しました。 

私が、竹田さんの家で、後藤さんに会ったのは、彼が英国からスロッビングのメンバーと契約を交わして帰って来た直後だったのです。彼は私に「これからスロッビングの知名度を高めていかないと絶対売れないよね。だからプロモーション・ビデオを日本各地で上映したいんだ」といいます。そこで彼から、盛岡での上映を約束して、当時としては貴重だったスロッビングのライブ映像を借りた。そして第五列週間をやったのと同じ、肉屋の3階の 「北点画廊」で上映会。しかし当時大画面のテレビがなかったので、14か16インチくらいので見ましたよ。集客数は20人そこそこ。これは色々ライブなどの 企画をやってきた経験からすれば「少し少ないかな」だった。東京は連日の上映で千人近く入った。大阪は正確ではないけど百人単位でという話だった。

これで分かったね。つまり「こういうアンダーグラウンド、マイナーな音楽に関心を持つ人数は、大体1万人に一人の割合だ」と。盛岡は当時、周辺人口しれて20数万でしたからね。今は合併とかして30万になったけど。 この、「ちょっとディープなのを好むのは1万人に一人」っていう割合は今で も変ってないと思いますが、クラブミュージックが色々な方向に発展したことや、ネットでのダウンロード、DJ達の活発な掘り下げと展開が、かつてのアングラ、マイナーという雰囲気は払拭し、全体としてサブカルの底上げという印象をもっています。とはいえ宮台真治はなんかの考察は大嫌いですけどね。

あ、それでスロッビングは少しずつ知名度があがり、遂にパスから彼らのサードアルバム「20ファンクジャズグレイツ」が出た。なんだか内容に合致しない タイトルだが、それは戦略のひとつでしょう。そして竹田賢一は非常に力のこもったライナーノーツを書き、またその折り込んだライナーの紙面には実に凝ったレイアウトがなされていた訳です。 このアルバムは割に聴きやすいんですよ。まあアメリカの悪魔教の教祖のひとりで、俳優でもあり演奏家でもあるアントンラヴェイ(ポランスキーの「ローズマリーの赤ちゃん」に出ている)は言います。「悪魔的な音楽は決して激しく人を揺さぶるようなものではない。甘美に染み込んできて陶酔させるような音楽だ」と。なるほど。そういうものか。だからスロッビングのリーダー、ジェネシスはこのあたりから次第に聴きやすく、囁くような声もよく使うようになって、次のバンドサイキックTVに繋がる(現在、彼は性転換して実に…なオンナになっております)。 

後藤さんは、カンのメンバーをバックに、名エンジニアである故コニープランクの協力を得て、フューのソロも出した。これは実に面白いね。堅固な構造の上に、危ういバランスで歩き回るフューという感じだ。その頃、私はバンド活動にも、ソロ多重録音にも精を出していた。それと、後藤さんが福島の「夢の遊覧船」バンドと知り合いで、彼らが盛岡にツアーで来たとき、付いて来て私の家に泊まった。彼らのライブ録音に手を入れてアルバ ムとして出すとかいう話だった。それで、ついでに私のバンド「アイスナイン」のライブ(当時は2サックスだった)も見て、夜にはそのバンド仲間の家で、私のソロに手を入れてくれたり、なかなか楽しかった。パスで出してくれないかなと思ったりね。 

その後、後藤さんは、これまた人気が出て来た、ドイツの特異な二人だけのバンド、DAF(ドイツ・アメリカ友好協会、という意味ですが、隠れた意味もある)を招聘しようとする。ああ、この辺も書き出すときりがないからやめよう。 結局それは実現できず、後藤さんもパスを止めてしまうんですが。現在は本の編集や翻訳に携わっています。

 <ピナコテカの終焉>

そして、いよいよピナコテカで発売予定の、竹田賢一の主宰するバンドA-Musikの録音が始まった。 竹田さんという人は、ご存知の通り「愚鈍な左翼」を以て任ずる人でして、学 生時代から活動家であった。そして該博な知識、明晰な論理、人民の側に立つ 意識、シャープな文章で頭角を現す前に、既にユニークな集団を作っていた。それは「学習団」といいます。つまり音楽に限らず、演劇的行動、パフォーマンス、アジテーション、デモンストレーション、デザインなどを通じて、人々を煽動するという考えに基づいていた、と私は解釈しています。これは英国のスクラッチ・オーケストラに通じる。

これはコーネリアス・カーデューの提唱、 主導による集団です。ブライアン・イーノやギャビン・ブライアーズなども参加していたし、一部はポーツマス・シンフォニアになった。竹田さんらの学習団には、坂本龍一も参加しており、彼の政治的メッセージも雑誌「同時代音楽」に再 録されています。面白いです。竹田さんは、当時非常にユニークな現代音楽などを多数出していたレーベル、ALM(コジマ録音)に貴重な作品をプロデュースした。それは坂本と、打楽器奏者の土取利行がやった即興的デュオです。「ディスアポイントメント波照間」というアルバムで、CD化されています。このジャケットにも「学習団創設!」というメッセージが書かれています。 

そして一方で竹田さんは、灰野さんらとヴァイブレーション・ソサエティという 、ロックバンドのような集団を作る。これはもう少しでメジャーからリリースされるところまでいったそうです。トリオ・レコードだったかな。 また、前述の通り、竹田さんはヴェッダ・ミュージック・ワークショップという集団を作った。この時期、実に活発ですね。この集団は即興的、音楽的行為を様々なアイデアに基づいて行っていた。学習団がなんだか挫折しちゃったからこういうこじんまりした形に変えたのかな。「愛欲人民十時劇場」にもこの集団名義の演奏が収録されています。 

名前の由来ですが、インドの山奥に70年代あたり迄全く現代社会と隔絶して生活していた集団があり、彼らの部族名が「ヴェッダ」というのですね。インド の風俗や文明とは全く異なるし、むしろアマゾンの裸族あたりに近いかな。で も彼らとも違う。それはヴェッダにはアンサンブル、合奏や合唱の概念が無かった。しかし彼ら一人一人が「自分の歌」を持っている。そして一生それを歌 う。もし他の地域から来た人が彼らに「一緒にやってみたら」というと「お安 い御用だ」と喜んで歌うのですが、同時に一人一人固有の歌を歌う。同じ歌、一緒に歌うという観念が欠如している。これは面白いですよ。

最近ちょっと話題になったアマゾンの部族ピダハンはもっと原始的で歌もないですからね。まあしかし、ヴェッダもピダハンもいまはそんなユートピアな生活は壊されちゃったみたいですね。悲しいというか、仕方ないというか。そう いう思いがあったのですよ、ヴェッダ・ミュージック・ワークショップにはね。私もヴェッダMWの練習には参加したり、ライブも京都や東京で一緒にやったりしました。楽しかったですね。音楽というより遊んでる感じが。だからフリージャズみたいに必死になってやるというのではなく、のんびりほんわか、音を出しているうちに発見がある、みたいな。鈴木昭男さんに近いでしょうかね 。




しかし、やはり竹田さんは原始共産制には飽き足らなかった。「革命の余興バンド」を自認し、世界の虐げられた民衆のルサンチマンと希望を結集した歌曲を演奏するバンドを作った。それがA-Musikです。これはドイツ語の芸術音楽でも大衆音楽でもない、アヴァンギャルドな音楽。まさに前衛(=前に立つ部隊)の意味なのです。 で、竹田さんはこの当時、まさにハイブリッドな楽器「大正琴」を改良したところだった。ピックアップで増幅し、エフェクターをかけて、旋律も即興もできるような、そして誰もが一聴して「あ、竹田さんだ」と分かるような独自のサウンドを作ってしまった。 私もこのサウンドにはやられたなあと思い、何度か盛岡にも来てもらいました 。スケルトン・クルーの前座とか、エヴァン・パーカー、バリー・ガイに対抗して私と竹田さんが組んだ時とか(これは私が自分のレーベル「アレロパシー」で初のCDにしました)、予定してなかったけど灰野さん、竹田さん、私のトリオとか。

さて、ピナコテカからリリースするためにA-Musikが録音に入ったはいいが、 全然出来上がらない。ちょっと進んだと思うと竹田さんがダメをだす。ようやく全部録音したと思ったら、竹田さんのライナーノートが出来上がらない。一年まち、二年まちで、結局ピナコテカは経営破綻してしまった。A-Muiskのせいだけではないのでしょうけど、大きな要因にはなったようです。結局A-Muiskの初アルバムはバルコニーレコードからリリースされました。このバルコニーにも色々思いでがありますけど、今は書きません。今回はA-Muiskがもたついているうちにピナコテカが息絶えてしまったというお話でした。またもや長ったらしい話ですみませんでした。


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