2016年9月8日木曜日

ニューナンブ(16) 「私とマイナー 2」

Text:Onnyk



  さて、当初フリージャズや、フリーミュージック傾向の音楽を聴けるジャズ喫茶として出発した「マイナー」が、フリーミュージックやそれに呼応するようなパフォーマンスの上演の場として生成変化するのに時間はかからなかった。敢えて言えば、2年半のうちに、そこに巻き起こったロマン主義、表現 主義の苛烈な「シュトルムウンドランク=疾風怒濤」が、その場自体も破壊し去ったようなものだ。しかし、ここに構成主義、超現実主義、ダダイスム、未来派は居なかった。それが現れたのは「マイナー」以降であり、「ピナコテカレコード」はその揺籃となったかもしれない。マイナーの店主、ピナコテカの社長、佐藤隆史本人の志向からすれば、彼は音楽に、もっと構成主義的かつロマン主義的なサウンドを求めていたと私は勝手に思うのである。第五列はさしずめチューリヒダダあたりかな。その詩的な源泉からして。 

魔窟、吉祥寺「マイナー」。その息吹はおそらくは後の明大前「モダーンミュージック」とそのレーベルであるPSFに受け継がれ、ライブの場としては「キッドアイラックホール」がその役割を担った。第五列は79年暮れにマイナーで企画した、自由参加型即興ワークショップ的コンサート「いみぷろゔぁいずど大晦日いゔ」を、同じメンバーによって十年後にキッドアイラックホールで行った。また佐藤=マイナーが、「マイナー通信〜アマルガム」を出していたように、モダーンミュージックは「Gモダーン」を刊行し続けた。「アマルガム」には書くチャンスがなかったのが残念だが、私は「Gモダーン」には連載とレビューを持つ事が出来た。これは店主、生悦住さんと、当初の発行編集をしていた田中さんの御陰である。盛岡という辺境(?)に住み、一度も東京に居を構えたことのない私が 、なぜマイナー、佐藤氏との交流が続いたか、またモダーンミュージックとの関わりが長かったか、これはまた別の機会に書く事にしよう。

ちなみに私はピナコテカで2枚のアルバム製作(PUNCANACHROCK / ANODE-CATHODE、「なまこじょしこおせえ/売国心/INFECUNED INFECTION」)に関わり、PSFではジャケットデザイン、解説などで2枚 のCD製作(SONAMIBIENT / HARRY BERTOIA, LIVE AT InROADS / BORBETOMAGUS)に関わった。インキャパシタンツの美川氏の推薦に感謝している。確かに、70年代から80年代はカセットテープの時代だった。自主レーベル、インディーズは次々にシングル盤、LPレコードを出し始めた。しかし、それは流通範囲が限定され、最大でも千枚程度だった。それでも現在の自主制作数よりは多いかもしれない。それはマーケットの細分化、矮小化を反映している。レコード製作は手間と金がかかる。だからピナコテカはそれを手作業でやろうとした。そしてそれは当事者に非常に労力を強いた。結局、経費は労働力なのだ。音楽以外の事で疲弊する代わりに金を払ってしまう方がいい、となってしまう。 

その意味ではカセットは実に手軽であり、内容的にも長時間の演奏を収録でき、編集もコピーも簡単だった。必要に応じて、フェードイン&アウトを始め様々な編集をアナログでやった。テープを切って繋ぐなどというのは普通で、裏返したり、ループを作ったりもした。第五列ボックスにはそういう録音も多数収録されている。郵送も簡単だった。インデクスカードや包装に凝る事も難しく無かった。そう、当時は郵便が重要だった。いまだから言うが、切手の上にヤマト糊を薄めて塗り、乾燥させてから投函する。相手もそれを分かっていて、封筒から切手部分を切り取って、水につけておけば、切手ははがれるし、消印も流れて消える。何度でも使えるのである。とはいえ3度も行き来した切手はぼろぼろになった。これは郵便のキセル行為だった。

電話でも面白い現象があった。時間を決めておいて同時に時報のダイアルにかけ、大声を出すと小さい音量だが相互の声が聞こえるのである。これが電話料金をうかせたかどうかは覚えていない。いずれ10時過ぎの深夜時間帯にかけあったことは覚えている。 マイナー周辺の連中では電報で呼び出したともいう。いずれケータイ、スマホの無かった時代に、我々はよく集まった。そういう意味では時間にルーズではなかったのだと思う。もしそれらがなくても、狼煙や飛脚でもとばして連絡を取り合っただろう。脇道にそれるが、戊辰戦争の時代、味方同士にせよ連絡を取り合うのは極めて困難だった。もし、ある情報があと少し早く届いていれば戦況は逆転したであろうとか、正確な情報が伝わらなかったからとか、情報の行き違いが状況悪化させたなどという話は、後になって多く伝わっている。当時の日本の情報伝達が、比較的早いとはいっても江戸と仙台の間では数日かかる。もし盛岡なら早くて一週間、日本海側ならもっとかもしれない。いや、実は70年代後半でも、盛岡と東京の郵便の流通には数日かかったのだ。

話を戻そう。先の吉祥寺ピコピコハウスでの、マイナー紹介企画においては、数多くのフライヤーをお見せした。その製作では、手書きの文字とイラスト、写真を貼りまぜ、モノクロコビーの安い店を探して教えあった。パソコンは無し、印刷は金がかかった。ダイレクトメールも出したが、当時、年賀状や暑中見舞いで流行った「プリントゴッコ」という 簡易的な、小型シルクスクリーンによって作った。一枚毎に微妙に差が 出るのも面白かった。最近のイベントのフライヤーは小さい。私のような老眼では裸眼で読めない。80年代までのフライヤーは大きかった。おかしな例えかもしれないが、なんだか世界が小さくなってしまったような気がする。

こうして、時代、メディア、方法論、状況を振り返って、どうしようというのか。いま、我々が何をしようとしているか、いかなる問題に直面しているかを問わねばならない(おお、紋切り型の典型)。と言って急に終わらせてしまう事もできるのだが、七〇年代には冷戦と核戦争の恐怖によって、今、テロリズムと環境問題によって世界の情勢を「演出」している力、金融経済、情報通信を牛耳る力が政治をコントロールしている、そのソフトファシズムのなかで、うろついている自分を俯瞰しているだけだ。「1984年」は今なのだ。坩堝、それはどろどろのカオスであり、そこに「アマルガム」が生成していた。